Posted by No Name Ninja - 2013.03.03,Sun
恋人が死んでからの男の日々。
あの光景が、いまも目に焼きついて離れない。
寝ても、覚めても、何を見ていても。
白に飛び散る鮮血の赤が、網膜に焼き付いてしまったようだった。
我が家の状況は悪化するばかりだった。
皇帝の手により各地に巻き起こった粛清の波は、ただ加速していくばかり。
火の粉が飛んでくることは、もはや避けられないだろう。いや、もはや手遅れなのだろう。
何せ、婚姻関係を結ぼうとしていた一族が、全員処刑されたのだから。
私の妻となるはずだったひと、そして親族は、他愛もない理由で処刑された。
葬儀すらなかった。反逆した一族にそのような価値はない、それが神聖なる皇帝陛下のお考えだった。それでは、葬儀を行う者など現れようはずがない。そんなことをしたら、自分も墓の主の後を追うだけなのだから。
父に指摘され、自分の顔から表情が消えていることを知る。だが、そんなことはどうでもよかった。
あの日から、私は只々、待っていた。
滑稽な私は、ただ待っていた。死者の帰還を待っていた。
死んだ人間は、四十日の間、生前と同じ姿でこの世に舞い戻る。そして四十日目に、生者を連れ去り、忘却の川を渡る。
それは、この国の人間なら誰もが知る伝承だった。母が死んだときも、その伝承を恐れた父によって、仰々しい儀式<ソロチーヌィ>が行われた。
父は、私を案じている。そのことは彼の瞳から充分読み取れたが、私は笑みにならない笑みを向けることしかできなかった。彼はそんな私を見て、ただ神に祈りを奉げるばかりだ。
私は待った。四十日の間、待った。彼女が私を迎えにきてくれることを待って、待って、待ち望んだ。あの日のままの彼女だけでなく、顔をみることも、いや、それどころか息子か娘かもわからないまま逝った私の子にも会えるのではないかと、楽しみですらあった。
だが、彼女は来てくれなかった。
四十一日目の朝を迎えて、私はどうしていいかわからなくなった。
彼女は、死に神になるには優しすぎたのか。それとも、子の命で運命が満足したのか。それはわからない。彼女は、現れなかった。
喜んで死のうとおもうと死に神がこないとは、よくできた格言だ。
結局私は生き長らえている。
そして、死者が現世に留まるという四十日間は過ぎ、彼女は忘却の河の向こう、本当に届かないところへ去っていった。
「気は済んだか、息子」
いつのまにか部屋に入ってきていた父に、私は視線を向けた。ドミトリー・ペトローヴィチ・カリニンスキー。彼が自ら私の部屋に入ってくるのは、初めてのことな気がする。
久しぶりに父の顔をまともに見る。元々実年齢よりずっと若々しかったはずのそれは、今や苦悩の陰濃く、すっかり年老いていた。
「父上」
やっと絞りだした声は、なんだか聴き覚えがないほど掠れていた。しばらく発声していなかったことに気付いたのは、少し経ってからだ。
「四十日か」
「そうなりますね」
「待っていたのか」
「……ご存知でしたようで」
否定しない私に、父は苦笑するように顔を歪め、軽く頭を振った。それはわかっているとも、と言うようでもあり、なさけない、と言うようでもあった。
父は、私の自害を案じていた、と呟いた。
「禁忌に触れてもおかしくないほどだからな、お前の様子ときたら」
「……申し訳ございません」
自死は神への反逆、しいては家族にも罰の及ぶ罪だ。流石の私も、それには躊躇いを覚えた。覚えていなければ、あの日に私は彼女を追ってこの世を去ったろう。
「謝らずとも良い、お前がまだ生きているのであれば、私は満足だ」
父が笑う。それは弱く、悲しい笑顔だった。
あの厳格だった男が、ここまで弱々しく見える日が来るとは、想像もしていなかった。
彼は彼で、打ちのめされ、打ちひしがれている。それに気づこうとしなかった自分を、私は恥じた。
「まともに寝ておらんのだろう、今日はよう休め」
返事に困る私に背を向け父は部屋を去ろうとした。しかし、扉の脇に来ると、静かに立ち止まった。
「サーシャや」
「はい、父上」
「この父を置いていくことは、罷りならんぞ」
返事を拒むように、扉が閉まり、私はまた一人になった。
「では、私はどうすればよいと仰るのですか」
返答のない問いが、冷え切った部屋に溶けて消える。
「父上、私にはわからないのです」
眠れといわれても、眠れはしないのだ。どうせ目を閉じれば、またあの光景に襲われる。
ああ、赤い。あの時飛び散った赤が、瞳に張り付いて離れない。
すべてを覆い尽くす赤が邪魔をして、もはやあの人の笑顔すら、思い出せない。
「ああ、カーチェンカ」
あんなに愛した微笑みを。なぜ私は思い出せないのだろう。
「君はもう、笑ってくれないのか」
返答の来ることのない問いが、再び部屋に溶けていった。
寝ても、覚めても、何を見ていても。
白に飛び散る鮮血の赤が、網膜に焼き付いてしまったようだった。
我が家の状況は悪化するばかりだった。
皇帝の手により各地に巻き起こった粛清の波は、ただ加速していくばかり。
火の粉が飛んでくることは、もはや避けられないだろう。いや、もはや手遅れなのだろう。
何せ、婚姻関係を結ぼうとしていた一族が、全員処刑されたのだから。
私の妻となるはずだったひと、そして親族は、他愛もない理由で処刑された。
葬儀すらなかった。反逆した一族にそのような価値はない、それが神聖なる皇帝陛下のお考えだった。それでは、葬儀を行う者など現れようはずがない。そんなことをしたら、自分も墓の主の後を追うだけなのだから。
父に指摘され、自分の顔から表情が消えていることを知る。だが、そんなことはどうでもよかった。
あの日から、私は只々、待っていた。
滑稽な私は、ただ待っていた。死者の帰還を待っていた。
死んだ人間は、四十日の間、生前と同じ姿でこの世に舞い戻る。そして四十日目に、生者を連れ去り、忘却の川を渡る。
それは、この国の人間なら誰もが知る伝承だった。母が死んだときも、その伝承を恐れた父によって、仰々しい儀式<ソロチーヌィ>が行われた。
父は、私を案じている。そのことは彼の瞳から充分読み取れたが、私は笑みにならない笑みを向けることしかできなかった。彼はそんな私を見て、ただ神に祈りを奉げるばかりだ。
私は待った。四十日の間、待った。彼女が私を迎えにきてくれることを待って、待って、待ち望んだ。あの日のままの彼女だけでなく、顔をみることも、いや、それどころか息子か娘かもわからないまま逝った私の子にも会えるのではないかと、楽しみですらあった。
だが、彼女は来てくれなかった。
四十一日目の朝を迎えて、私はどうしていいかわからなくなった。
彼女は、死に神になるには優しすぎたのか。それとも、子の命で運命が満足したのか。それはわからない。彼女は、現れなかった。
喜んで死のうとおもうと死に神がこないとは、よくできた格言だ。
結局私は生き長らえている。
そして、死者が現世に留まるという四十日間は過ぎ、彼女は忘却の河の向こう、本当に届かないところへ去っていった。
「気は済んだか、息子」
いつのまにか部屋に入ってきていた父に、私は視線を向けた。ドミトリー・ペトローヴィチ・カリニンスキー。彼が自ら私の部屋に入ってくるのは、初めてのことな気がする。
久しぶりに父の顔をまともに見る。元々実年齢よりずっと若々しかったはずのそれは、今や苦悩の陰濃く、すっかり年老いていた。
「父上」
やっと絞りだした声は、なんだか聴き覚えがないほど掠れていた。しばらく発声していなかったことに気付いたのは、少し経ってからだ。
「四十日か」
「そうなりますね」
「待っていたのか」
「……ご存知でしたようで」
否定しない私に、父は苦笑するように顔を歪め、軽く頭を振った。それはわかっているとも、と言うようでもあり、なさけない、と言うようでもあった。
父は、私の自害を案じていた、と呟いた。
「禁忌に触れてもおかしくないほどだからな、お前の様子ときたら」
「……申し訳ございません」
自死は神への反逆、しいては家族にも罰の及ぶ罪だ。流石の私も、それには躊躇いを覚えた。覚えていなければ、あの日に私は彼女を追ってこの世を去ったろう。
「謝らずとも良い、お前がまだ生きているのであれば、私は満足だ」
父が笑う。それは弱く、悲しい笑顔だった。
あの厳格だった男が、ここまで弱々しく見える日が来るとは、想像もしていなかった。
彼は彼で、打ちのめされ、打ちひしがれている。それに気づこうとしなかった自分を、私は恥じた。
「まともに寝ておらんのだろう、今日はよう休め」
返事に困る私に背を向け父は部屋を去ろうとした。しかし、扉の脇に来ると、静かに立ち止まった。
「サーシャや」
「はい、父上」
「この父を置いていくことは、罷りならんぞ」
返事を拒むように、扉が閉まり、私はまた一人になった。
「では、私はどうすればよいと仰るのですか」
返答のない問いが、冷え切った部屋に溶けて消える。
「父上、私にはわからないのです」
眠れといわれても、眠れはしないのだ。どうせ目を閉じれば、またあの光景に襲われる。
ああ、赤い。あの時飛び散った赤が、瞳に張り付いて離れない。
すべてを覆い尽くす赤が邪魔をして、もはやあの人の笑顔すら、思い出せない。
「ああ、カーチェンカ」
あんなに愛した微笑みを。なぜ私は思い出せないのだろう。
「君はもう、笑ってくれないのか」
返答の来ることのない問いが、再び部屋に溶けていった。
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